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道なき時代の改革請負人

●ドキュメント『道なき時代の改革請負人』 /レポート・高橋仁 写真・貝塚裕一
雑誌「地域から日本を変える」 (1995年10月号)


松下電器・本社経理部でゴーストバスターズの事前打ち合わせをする宇佐美さん(右)

21世紀までのカウントダウンが始まった。そんないまをレールのない時代だ」と言うひとりの経営コンサルタントがいる。宇佐美泰一郎さん(松下政経塾7期生)はいち早くコンピュータネットに注目し松下電器の社内改革に腕を振るってきた。混迷の時代に切り込む彼の改革論とは。

お化け退治隊、現る

  大阪府門真市の松下電器産業(株)本社。始業時刻を間近にして、出社してくる人と車とで慌しい。だが、ここ大会議室の空気は張り詰めている。始業とともに1日がかりの会議に臨もうと27人の経理マンたちが控えている。
  参加者のひとり松本論さん(30)がまず会議の口火を切った。「今日の課題は、理想的な経理社員の育成を行うにはということです。普段の膨大な仕事に加え、PL法や新規の問題が山積みなのに、実際はそれをこなしきれていない」。
  彼の仕事は経理の係長。とはいっても職場はこの本社ではない、大阪府茨木市のテレビ事業部だ。他の参加者も部品事業、海外事業とあちこちから来ている。名高い松下電器の事業部制。そうした独立色の強い各事業部と本社を結ぶ中枢神経の役割を担っているのが経理である。
 「さて、改革のための作業を始めましょう」。会議のコーディネーター宇佐美泰一郎さん(32、経営コンサルタント)が声を掛けたグループごとに机を並べ替えると、家電の経理担当者5人と宇佐美さんのやりとりが始まった。
 「なぜ30歳前後の経理社員の能力開発がスムーズに進まないと思いますか」。宇佐美さんはひとりひとりと問答を繰り返し、要点をボードに書き記す。トラブルケースごとの法律運用ノウハウの欠如、自己啓発時間の少なさ、決算期に押し寄せる伝票の束。毎日の仕事の一面が、宇佐美さんの手にかかると相互に関連づけられ、経営組織のあり方と矛盾点の発見に昇華されてゆく。「ゴーストバスターズ。私たち、社内でそう呼ばれています」と、宇佐美さんは笑う。
 88年から松下電器本社経理部は、情報化や効率化といった目標を掲げ、業務改革プロジェクトを発足させた。その柱となったのがシステム開発グループ。そこで宇佐美さんがまとめ上げたノウハウと、それを駆使して経営改革を支援するメンバーがゴーストパスターズである。
 「経営の極意は建て直しにあり、と松下幸之助さんは語りました。私は、師である塾主の会社に参画して、改革を行うというチャンスに恵まれました。その過程で培った手法を活かし90年に経営コンサルタントとして独立しました」と彼は話す。「松下政経塾7期生、経営コンサルティング会社(株)ニューポート代表取締役社長」が肩書きである。

コンピュータと鉄砲

 宇佐美さんは愛知県の出身。1962年12月、名古屋市で手広く製菓業を営む両親のもとに生まれた。「はっきり言ってボンボンでしたよ。でもある時を境に天国から地獄ほどに人生観が変わって」。小学生のとき、家業が倒産したのだ。次々と差し押さえられていった家具、友だちは口も利かなくなった。借金の返済に懸命の両親。そんなふたりの背中を見て育った彼は、小学校の卒業文集にこう綴った。「将来の夢は平凡なサラリーマンになること」。経営という人生の浮き沈みがあまりに色濃く出る世界。それを無意識のうちに遠ざけようとしていた。
 ところが、宇佐美さんの人生はそれとは全く違った軌跡を描く。進学先に選んだのは早稲田大学理工学部工業経営学科。卒論ではトップマネジメントを取り上げた。彼の心は片時も「経営」から離れることがなかった。
 「意識の奥の経営という言葉を発見したのは高校1年の教室だった」と宇佐美さんは振り返る。教室の隅に担任の置いていく「蛍雪時代」がいつもあった。大学進学を考える高校生なら誰もが手に取る情報誌だ。パラパラと頁をめくってみた。めくりながら自分の目が自然とふたつの単語を追いかけているのに気づいた。「経営」そして 「コンピュータ」。
 「経営という行為を探求したい。これからの時代、そのための武器はコンピュータになる。直感的にそう感じたんです」。そして「時代をつくり変えるほどの影響力を秘めた武器。騎馬戦華やかなりし頃、鉄砲を天下取りの道具と位置づけた尾張の信長も絶対こんな気持ちだったと思う」と続ける。

米国での近未来体験

 「経営の神様の弟子になりたい」。宇佐美さんが政経塾に引きつけられたのもごく自然だった。学生時代から松下幸之助の経営手腕や業績はもちろん、わけても社会や人間に対する哲学に親近感を覚えていた。松下塾主の著した「人間を考える」は彼の愛読書だった。「塾主の夢である21世紀を創る担い手としての政経塾にかけてみよう」、そう心に決めた。
  政経塾に在籍したのは86年4月から88年3月までの約2年間。そこでのある経験を指して、「10年後の社会の姿を垣間見ることができたのが最高の財産」と言う。それは「自分の武器」と確信していたコンピュータをめぐる出会いだった。
  87年9月、6時間も到着の遅れた飛行機のタラップを降りた。降り立った場所は米国ワシントンDC。この国で最大の影響力を持つパソコンネット(メタネット)を提供している会社「メタシステムズ・デザイン・グループ」での研修が目的だった。「パソコン通信って何?」。当時の日本なら10人中9人がそう言ったに違いない。だが米国では、すでに100万を超す人がパソコン通信を利用し、ビジネスはもとより地域おこしや政治まで、実用化の域に達していた。「10年先の日本の未来を見ているんだ」。驚きと興奮でいっぱいだったと言う。
  ボーイング社では工場間の技術移転や指導に通信を導入し、効果を上げていた。コロラドでは、市議選にパソコン通信を駆使した候補者が立候補。通常の10分の1の選挙費用で当選した。「半年後に帰国する頃には、驚きは確信に変わっていました。10年後は日本もこうなっている。自分だけはそれを知っているんだという自信に」。

大物とバカの出会い

 「VISION90sはまずパソコン通信から始めてほしい」。87年11月、松下電器産業(株)本社経理部・システム開発グループ主担当参事の山本憲司さんは、平田雅彦副社長(当時)からこう声を掛けられた。当時の平田さんは松下幸之助相談役からあることを託されていた。「白いキャンバスに全く新しい絵を描くように、新しい松下を創ってほしい」というものである。VISION90Sはその言葉に応えてのプロジェクトであった。

 山本さんたちは翌88年の9月までに国内の全事業場400カ所をなんとかつないだ。しかし海外は手つかずのまま。そんな折、彼は人を介して宇佐美さんを紹介された。米国での経験、各地でパソコンネットを立ち上げた実績など、とにかく申し分ない。その場で山本さんは彼を平田副社長に引き合わせた。
 「派遣社員はたくさん松下におりましたけど、契約社員というのは初の例やと人事が言ってきましたわ」と山本さんは当時を振り返る。形にこだわらず「白いキャンバスに新しい絵を描く」を地でいっていた。「12月5日からの契約なのに、11月末にはもうマレーシアに回線つなぎに飛んでました」。宇佐美さんもそうした空気に違和感はなかった。
 31カ国の松下の経理をパソコン通信でつなげる仕事。彼はそれをたったひとりで、しかも半年でこなした。「パソコンの立ち上げ」と言えば聞こえは良いが、実際は「電話工事。会社に着いたら挨拶もそこそこに机の下に潜って電話線を引き、ラインをつなぐ。汗と埃まみれ」。アジア、南米、欧州とつなぎ、息つく暇もなく次の場所へと移動する。「こんなもの何になるの」という陰口も耳に入った。しかし、宇佐美さんにとっては確信が活力だった。米国で見てきたパソコンネットを駆使する企業や社会がそれだ。
 「メタネットを支えていたのはたった5人の職員。コンピュータネットワークがピラミッド型巨大組織を崩し、個人の可能性を極限まで引き出していました。組織や経営が変化し進化するんです」
 その後の展開は読みどおり。確信は時を置かず現実となった。89年に海外のポイントがつながった時点で、481事業場、4484人もの一大パソコン、ネットワークができ上がった。愛称は「ガンダム」。「Global Accounting Network of DataAnd Message」の頭文字を取っている。ガンダムの攻勢は著しかった。地区によっては書類のやりとりに2カ月かかっていたのがまるで嘘のようになった。膨大な量のコピーや、何よりデータ再入力の手間が消えた。同時に、これまで雲の上の人であった経営幹部と社員との壁が崩れていった。

 通信メニューで最も人気を博したのが、副社長と直接意見交換できるコーナーである。わずか1カ月間に25万回ものアクセスがあったこともある。組織の基礎である個人から活力が湧き上がり、ピラミッドは中から変わり出した。
 「2年かかる海外との回線づくりを半年でやったりと、随分、無茶もしてます。けれども改革の元締めである平田副社長が、そういうバカを決して叱らずに励ましてくれました。何があっても「いいねえ。次の報告を楽しみにしているよ」と言ってくれる大物、それを意気に感じるバカ。両方がいて物事は進みますな」。山本さんの弁である。
 「宇佐美君ね」、平田さんが言葉をかけろ。「相談役が亡くなる直前に私にこう聞いてきたんだ。『松下の従業員は幸せに働いているだろうか』って。それだけをね」。全員が創業者という最大の大物に応えようとしたバカだったのかもしれない。宇佐美さんはそんなふうに思っている。

武器はシステム思考

 改革請負人・ゴーストバスターズのメンバー。コンピュータを使いこなし、システムズアプローチの手法を会得している。所属は本社経理部のシステム開発グループ。依頼があれば社内のどこにでも出向く。「大企業病に対する改革」とマスコミで何度も紹介されている。
 会議が始まってからすでに2時間が経っていた。ボードは文字と絵で埋めつくされている。「経理の仕事は残業をしないと間に合わない。自己啓発と技能開発に割く時間がない」。会議の冒頭で提起された問題点は、会社や仕事はそういうものだと、半ば常識のように社員が考えていたことでもある。
 ところが全員で「なぜ」と繰り返し考え、それを見取り図に表すと、「現場のなぜ」が実は社員配置であったり、会社全体の年代別人口分布によって規定されていたりすることが見えてきた。「仕組みや制度、それを決定している経営理念のなぜ」に還元されていくのである。
 宇佐美さんは要領を解説する。
 「『なぜ、なぜ』と5回繰り返す。そのことを通じて業務上の問題が表層的なものでしかないのがわかります。実際はその上の管理もしくは経営方針にこそ鍵はあるんです」。彼が書き上げたボードはさながら鳥瞰図。まさに各業務課題を相関的に大所高所から捉えるのである。
 「システム開発グループでの活動を素材に、考えを構築していったんです。現場のトラブルこそ、制度や理念の歪みからもたらされる積年の垢だと言えます。それこそが「ゴースト』です」。
 さらに比喩を用いて続ける。
 「モグラ叩きのモグラ。あれを全部叩いても何の解決にもならないでしょう。機械のパネルを開け、モグラがどういうシステムで出てくるのかを明らかし、二度と出てこないようにする。そういう思考が私の武器です」。
 システムズ・アプローチ。宇佐美さんが開発した独自の改革手法である。全体の関連の中から物事を考える「システム思考」によって改革を進めると言う。年2400時間もの経理の総労働時間の短縮、その元凶である会計書類の再入力問題の解決、取引先との伝票トラブルの削減等々。大学時代からの長年の理論研究に加え、現場に入り込んで時には罵声を浴びながら、実践を通じて練り上げたものだ。
  手塩にかけて育てたゴーストバスターズは、90年6月のキックオフ以来、すでに数百カ所以上の支援に赴いた。中には決算の不整合を3分の2まで減らすなどの成果を上げたものもある。
  「改革の終着点は、『システム思考』がひとりひとりに根づいてほしいということです。これは企業だけでなく政治などあらゆる改革に応用できるはず」。宇佐美さんはいまだ道半ばと見ていろ。

いまはレールなき時代

  「よろしくお願いします」と宇佐美さんが差し出す名刺には、「改革のプロ、(株)ニューポート代表取締役」とある。パソコンを使って自らデザインしたロゴマークだ。「私のコンサルタントとしての仕事は、改善でなく改革です。これまでの延長線ではありません。レールが目の前でなくなってしまったいまを生き抜くための知恵出しです」と彼は強調する。パソコンネットと松下の改革をケースに開発した「システムズ・アプローチ」がその売りだが、さらにもうひとつ、とつけ加える。
 「師・松下幸之助は言っています。小は個人から大は国家まで、人間の営みはすべて経営である」。その言葉に忠実に、彼のコンサルトの対象は企業に留まらない。自らのノウハウをつくる過程で導入した個人と社会からの情報と経験。その裾野の広さを思ってのことだ。
 「アメリカの研修でお世話になったメタネットのフランク・バーンズ社長は東洋思想を取り入れ物事を調和として考えていました。システム思考と同じです」。
 「そして私の根幹の、なぜを5回繰り返すことは、結局、幸之助哲学と一致しています。彼はこう唱えていました。考えることより考え抜くことが大事と」。
 再び、松下電器本社を訪れろと、山本さんと宇佐美さんが顧問に就任した平田さんを囲んで談笑していた。平田さんが「私は宇佐美君のことをずっと預かりものだと思っていましたよ。社会と日本からのね」と言うと、山本さんが頷き、宇佐美さんは頭をかいた。
 松下電器の改革請負人から社会の改革請負人へ。今年は一夏かけて、徳島で「国際パソコンネット・インターネット」の立ち上げを請け負った。混迷の時代である。既成に囚われない 改革という名の創造と挑戦を求め、宇佐美さんはさらに大きくはばたこうとしている。

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