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第4章 高度情報化杜会の今後の展望と課題

第1節 情報化社会の現状

 今日我が国をはじめとして、先進諸外国において高度情報化の波は避けて通ることの出来ない時代のトレンドとして方々で叫ばれている。そして時間の差や、国境などの空間的な距離をこえた、新しいネットワーク社会が、国内のみならず、国際的に生まれようとしているのも事実である。

しかし、「第3の波」と呼ばれるような高度情報化の波は、まだその入り口にさしかかったにすぎない。しかも様々な形で高度情報化のイメージは膨らむ一方だが、本当に大切なのはどういう機械を使うかということよりも、それをどのように使い、私達の社会や組織にどのような影響があるかということではないであろうか。

今回の研修では「一体何が人間の欲するものであり、目指すべき理想の社会とは何であり、どのように高度情報化と、結びつげるべきなのか?」といった問題意識のもとにCATV、電子会議などニューメディアと呼ばれるものの中でも、特に今までのメディアにない双方向のコミュニケーショソを可能にする情報通信の応用事例に関して、研修を行なってきたわけである。

第2節 道具としての情報化

遠く都会で一人暮らしをする息子が、田舎の両親に電話をかけるような場合、この電話を「非人問的なもの」と考えるだろうか?電話にしてもあるいは電子会議にしても、それは我々の社会における、お互いのコミュニケーションを助ける道具である。いや単に道具にすぎない。

本書でも最初に取り上げた、メタネットの創始者フランク・バーンズ氏は、特にそのことを強調している。「技術というものは、人間の生活を助ける手段である。しかし、それは使い方次第で薬にもなれば、毒にもなる。もし我々が、それらを有益に使いこなす知恵を持っているならば、それは社会を発展させるための有益な手段となる。ただ闇雲に、技術は非人間的なものだと片付けてしまうのではなく、むしろそれを社会変革にための手段として、使いこなしていく知恵を持つべきである。」と。本書で取り上げた組織変革のためのOTと呼ばれる理論は、まさにこの技術を社会の発展に結びつけた「知恵」といえる。

また同じくリサ・カールソン女史も「電子会議よりも実際に顔と顔を見合わせて、会って話をした方がいいのでは?」と私が質問すると、すかさず「確かに会って話をする方がどんなにいいか知れない。でも、例えば日本とアメリカでは、会いたくても会えないのが事実。それならば、「全く会わないこと」をとるか、または「電子会議でコミュニケーションすることをとるか」といわれたら、私は電子会議をとるわ。お互い何を考えているのかを理解し、親密になりたいという気持ちは変わらないもの。そのために電子会議は、最高の道具よ」と。

第3節 日米における情報化の進展の違い

はたして本研究で取り上げたような事例が日本で出来るのであろうか?だれしも疑問なところである。一般にアメリカと比べるとわが国の場合、5年から10年情報化では遅れているといわれる。しかし逆に、ファックスの普及などのように、日本の方が発達して部分もある。そして勿論、実現できるか否か、その答えは今の段階で予想すら出来ない。何十年か経ったときに、初めてその答えは出るであろう。しかしここでは、日本において取り組む際の問題点、日米の情報化の進展の違いについてそのスピードという面とその質的な違いという点から考えてみたい。

(1)情報化のスピード

ハーバード・ビジネス・スクールのジム・キャッシュ教授は、情報化の展開について「導入期・成長期・発展期・衰退期がある」と語った。導入期においてはゲームなどの娯楽、成長期にはビジネスなどで、そして発展期にはそれまでとは違う様々な応用範囲が広がり、衰退期では数量的伸びは落ちるものの、ほとんどの分野で完全に定着するというわけである。

ジム・キャッシュ教授は、技術レベルの発展よりも、むしろその応用方法や、適用分野によって、その発達段階をとらえている。そして彼は、「情報化社会の次にやってくる社会は、人間の意識的進化の時代である。情報化社会とは、その新しい時代の幕を開ける前段的意味合いを持っている。アメリカにおける、最近の電子会議やCATVなどの双方向メディアの発達、とりわけ利用法の発達はこの伏線であろう。」と。このような点からすれば、情報化の日米の進展の違いを比較すると、どういうことになるであろうか。明確に区分することはできないが、しかし単にビジネスのみならず、それぞれが目的をもち様々な分野において応用が進む「発展期」の入り口にいるアメリカに対して、日本の場合概して趣味や娯楽、あるいはビジネスがほとんどということから、未だ「成長期」を脱していないといえる。今だに情報化というと、各メーカーがその持てる技術の粋を集めた、展示場で行なわれる大企業のための情報機器の展示会しか、頭に思い浮かばないようなわが国の状況では、残念ながらこの「成長期」を脱するまでには、まだまだ時間がかかりそうである。

(2)日米の情報化推進のための質的発展要因の違い

しかし、とはいえ、それぞれの国が持つ基礎的な条件が異なっているのも事実である。

まず第一に政治的には極端な中央集権の日本と、地方分権の米国では、自由に独立してアイデアを生み出す米国に対して、日本の場合ユーザーから離れた中央からのトップダウン的な政策が中心となる。

第二に、社会的な要因として日本の場合、ピラミッド型の会社組織が社会の中心となり、自由な個人をべ一スにしたネットワーク型の組織ではない点。

第三に、産業構造の問題として製造業中心の日本と、コンサルタントや弁護士等の知識産業が発展している米国では情報化の対象が自ずと異なること。

第四に、地理的に見ると広大な国土を持ち、通信衛星を初め情報通信に対する潜在需要の大きい米国と、情報が東京集中の日本。

第五に、歴史的に見るとタイプライターやコンピューターの歴史の長い米国と、蓄積を持たない日本。

第六に、特殊で複雑な言語形態を持つ日本と、アルファベットを使用する米国、等の違いがあげられる。

こうした基盤条件の違いが、やはりアメリカにおいて広い国土をカバーするための通信衛星の発達を生み、日本ではデジタル回線の普及に拍車をかけたりという違いを生んでいる。また、消費者二一ズに根ざしたアメリカのビジネス社会においては、エンタテイメントとしての都市型CATVの発展を生んでいる。また日本では、タイプライターの歴史が浅く、キーボードでの入力が困難で、しかもワープロの文章の場合、変換の手間があるため、手書き原稿の送れるファックスの普及を促進した。

しかし、こうした違いがあるものの、両国において共通していることは、「知価革命」と呼ばれるように、人間の社会的意識が変化している中にあって、そうした杜会変化を背景にして、情報通信そのものの利用法が益々多様で、より人間の欲求変化に合わせた形で高度化していることである。

第4節 今後の情報化の展望

(1)時代の変化と情報二一ズ

「物から心へ」と時代が移り変わろうとしている現代。こうしたなかで、宗教・教育など心の豊かさを求めたり、あるいは市民が社会へ参加したり、人と人との出会い、新しい人間関係などを求めようとしているのも事実である。アメリカの心理学者マズローは、人間の欲求は5つの段階を経て進化していくととらえた。食欲、性欲、睡眠欲など最低限人間が生きていくために必要な生存の欲求、自分自身の身体的安全を守る安全の欲求、社会に適応し、その中でうまく調和を保っていこうという社会的欲求、社会のなかで自分自身の存在を示そうとする自我の欲求、最後に自らの生きがいや達成感、充実感を求めようとする、自己実現の欲求という5つの段階である。

そしてマズローは最後に、人間は真善美を求め、宗教的に深い境地にいたると説く。こうした彼の理論を発達させて、さらに最近では「トランス・バーソナル」と称し、単に自己の実現のみならず、積極的に他人にも貢献し、その中から到上の喜びを得るという、他者実現の欲求も存在するということが明らかとなった。

このように、人間の欲求が高度化するというのは単に一個人の問題だけでなく、社会というメカニズムを通して、社会の高度化、ひいては文明の進化ということにも繋がってこよう。一次産業から二次産業、二次産業から三次・四次産業へという産業構造の変化、あるいは物の時代から心の時代へという消費者意識の変化も、こうした人問の欲求の高度化、進化と大きな関係を持っていることだろう。

(2)社会における「情報」の意義

今回取り扱った事例は、こうした時代変化、人々の意識の変化のなかで、今後わが国においても重要になってくるであろう、政治・行政・教育・文化・宗教などの分野における情報化の事例である。

従来、こうした分野の情報化は、わが国において、もっとも遅れた領域でもあった。例えば、仕事に追われる一般社会人が社会参加、政治参加を行なおうにも、時間的な制約があったり、また政治や行政の現場と距離を隔てている場合が一般的である。また仕事を持った人たちが、たとえ学習を行なおうにも、やはり同じように時間の制約、地理的な距離の制約のために、なかなか学習するという機会に恵まれなかった。そして、現在のマスプロ的な教育のなかでは、教師と生徒がお互い自由に話し合い、理解しあうということは、ほとんど不可能に近かった。

しかし、現在の技術の発達、とりわげコンピュータとコンピュータとによるネットワークの発達は、こうした時間的制約や距離的制約を越えて、お互いが密接なコミュニケーションを行なうことが出来る、双方向性という特徴を持っている。

そもそも社会組織といわれるものは、小さいものでは家族からはじまって、学校や会社、地域社会、国家あるいは国際社会にいたるまで、組織の大きさや分野を問わず、コミュニケーションと呼ばれるお互いの意志疎通、会話などの情報の流れから成り立っている。そして、これが我々の価値観や意識のあり方、また社会における互いの力関係を成り立たせている、基本的な要素でもある。例えば家庭や会社においても、ちょっとした誤解からお互いの人間関係が悪くなったりまた、「あの車が欲しい」あるいは「あの人はいい人だ」というような価値観や評価もまた、もとをただすと、ちょっとした噂話、あるいはテレビや雑誌の宣伝などがその原因でもあったりする。社会における「情報」の意義とは、このように極めて大きな意味を持ち、しかも社会のありかたそのものまでも規定するような重要なものである。

しかし残念なことに、我々が「情報化社会」という言葉を耳にしたとき、コンピュータや各種情報機器などの、どちらかというとこうした非人間的なものをイメージしがちである。こうした点にもわが国の情報化の限界があるといえる。

(3)メタシステムズでの研修

私にとって人生の師ともいえるフランク・バーンズ氏のもとで、4ヵ月間の研修を行なって、もっとも印象に残ったことは、電子会議というものを設置し、立ち上げ、運営していく過程で彼が、ハード機器よりも、むしろ会議そのものの運営、すなわちメンバーをリードし、教育し、時には啓蒙していくというまさに人間関係そのものの取り扱いに極めて努力しているということである。

例えば、電子会議システム、コーカスを立ち上げて、うまく軌道に乗せるまでの最初の約半年間の間は、彼の良きパートナーであるリサ・カールソソとともに、ほとんど二人だけで新しい会議を創設していった。そしてその間、二人はそれら会議の運営者として、強力なリーダーシップを発揮し、メンバーが自ら心を開き、進んで貢献しようという意識に高めるため、モチベーション(動機づけ)をかかさなかった。

時には冗談を交え、また時には相手の発言を評価し、アドバイスを惜しまなかった。そして半年ほどすると状況は一変した。突然会議の主催者が変わり、メンバーが自分から進んで会議を作り出したのである。この段階になると、もはや二人はオブザーバーのような立場で自分たちから、イニシアティブ(主導権)を取ることなく、メソバーが途中で飽きないように、また方向を脱しないように、適宜刺激を与えたり、新しい企画で触発するような役割に変わっていった。

そして、その間でも常に、メンバーが使いやすいようなシステムヘと改善し、また機会を見つけては、お互いのメンバーが実際に顔と顔を合わせるチャンスを作っていった。そして、パソコン通信を使えない人たちもこうした会合に招き、単に技術に終始することなく、広い意味での人間関係づくり、ネットワークを作っていった。

彼らは自分たちのそうした活動を「ネットワーク・インキュベーター」と呼ぶ。つまり、ネットワークという小さな卵を暖め、それを艀化し、大きく育てていく、腐乱機のことである。ここには、「技術」という名の冷たい印象はない。常に笑いと笑顔があふれ、人々が集まってくる。彼らにとっての電子会議は、そうした活動の一つの道具にすぎないのである。驚いたことに、ここではメソバー同志が出会うと決まって、かつての旧友と出会った時のように、お互いが抱き合い、「君のお父さんは、あれから元気になったの?」とそれまで何年も会っていないとは、決して思えないような会話からスタートするのである。これは、お互いが会えない間も、それぞれの話を続けていた証拠といえる。

リサ・カールソンは自分たちの目標についてこう語っている。「私達の目指すものは、人間個々人の意識の成長であり、社会や組織の変革であり、自律した人間が差別や偏見がなく平等に連帯できる、地球社会の創造である」と。

第5節 高度情報化の視点

(1)人間的要素の重要性

確かに日本の情報化の進展は、米国のそれとは質・量ともに異なる。しかし本研究で述べたようにメタネットにおいてはコンピュータなどのハードウェアよりも、むしろ人間関係におけるリーダーシップや教育・啓蒙などの電子会議の運営に重点をおいていた。

またコロラドの新しい民主政治、そしてユニオン大学院における教師と学生のより深い対話による教育などは人間なら誰しも欲する欲求に結びついたものであり、また情報通信という新しい技術を用いてはじめて可能になるもので、国の違いを越えて共通するものでもある。

情報機器、ニューメディアと騒いでも、所詮それを使うのは人間であり、人間の役に立ち社会の発展につながってこそ、道具としてのハードウェアもまた生きてこよう。しかし、今日の日本ではやれパソコン通信がいいの、やれファックス、ビデオテックスがいいのと末梢的な議論に終始している。

そうではなくて、わたしたちの生活や社会を考えたうえで、個々の分野で明確な目的を持ち、それらの目的に応じて適切な機器を選定し、ある時は複合的に用いながら、情報通信の機能を最大限に生かした利用法を探ることこそ、これからの日本の情報化を考えた時にもっとも重要なものとなってくる。

一般に情報の分野では、コンピュータなどの機械などをハードウェア、それを動かすためのプログラムや、テレビなどの番組そのものをソフトウェアと呼んでいる。しかし、今まで述べたように、情報機器を人間の幸福に役立てようという目的意識やメタネットのように、それを運営していく際の人間関係、あるいは人と人との触れ合いによって生まれる喜びなど、ここには明らかにもう一つの視点である、ヒューマンウェアとも呼ぶべき人間的要素がある。

単なる情報化ではなく、「高度」な情報化の社会としての高度情報化社会を考えるには、このヒューマンウェアという視点は不可欠である。ハード、ソフト、そしてヒューマンという3つが揮然一体となったときに、真の高度情報化杜会と呼ぶことが出来よう。

高度情報化社会を単に技術の発達だけで捉えるのか、それとも産業構造の転換、二一ズの変化などの意識の変化、あるいは国際的な拡大・展開や文明の転換期などの様々な歴史的潮流の中の一つとして捉えるかによって、その捉え方が大きく異なる。

それだけに、今後は我々人間が目指すべき、真善美の世界、言い換えれば教育、文化、あるいは広い意味での一般市民の社会参加や人間的なコミュニティー作りを目指した政治・行政の分野、そして宗教などの分野における情報化を進めていくべきである。

そのことによって、人間の欲求の高度化を進め、またこうした分野に現在存在する様々な問題点を意志の疎通、コミュニケーションの流れを活発化し、それを高めていく「知恵」を身につけていくことが重要である。こうした本質的な部分を踏まえて進めば、やがてはわが国独自の本当の意味での「高度な」情報化が進むはずである。

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